事務のプロフィール|福山市 なかむら歯科クリニック 痛くない・やさしい歯医者

スタッフ紹介

スタッフ プロフィール

自己紹介

私は福山市に隣接する府中市で三人姉妹の末っ子として、生まれ育ちました。
上の姉とは11歳、下の姉とは9歳と歳が離れていたこともあり、姉達には申し訳ないのですが、両親からはあからさまに贔屓されて育ったように思います。
内気な性格だったので、ひとりでテレビを見たり、本を読んだり、絵を描いたりするのが好きな子でした。裕福ではなかったものの、自然豊かな環境の中で、何不自由する事もなく元気いっぱい過ごした子ども時代でした。

高校2年生の時、元気だった父が突然脳出血で倒れました。命は助かったものの右半身に障害が残り、職人として勤務していた建具会社を退職せざるをえず、介護生活が始まりました。
幸い、母が明るい性格だったので、悲壮感におそわれる事もなく家族で穏やかに過ごしていく事ができました。何より、療養中の父本人がリハビリがわりに日曜大工を楽しみ、常に笑顔で過ごしていたのが救いでした。何か困難な事にあっても前向きに生きる両親の姿勢は、今でも私のお手本になっています。
ただ、やはり経済的には苦しくなったので、当時大学受験にむけて準備していた時期だった事もあり、進路についてはかなり悩みました。もともと歴史が好きで、博物館の学芸員に憧れていた事もあり、漠然とまわりの友達と同じように、当たり前のように大学に行くものだと思って過ごしていたので、突然目標を失ったような気持ちにもなりました。

スタッフ

家族のため、自分のため、何が最良の選択なのか、今ふりかえっても人生で一番悩んだかもしれません。
父の病気を理由にして、何かをあきらめる形で就職をして後悔はないか?果たしてそれで親は喜ぶのか?結局本当にやりたい事は何だろう?と来る日も来る日も自問自答しました。
息抜きのつもりで絵はずっと描いていたのですが、ある時、没頭して絵を描き続け徹夜してしまった事がありました。
受験勉強に集中しようと、はりきっていても、すぐ眠たくなって徹夜まではできなかった自分なので、正直驚きました。ある本に「頑張ろうと思わないでも頑張れる事が天職です。才能はともかく、十年継続して仕事をすれば誰でも大抵その道の一流になれるものです」と書いてあった事を思い出し、その時、なんだか急に頭が晴れ渡った気がしました。
やっぱり好きな事をつきつめた中に自分の「仕事」というものがあるはず、と考えがまとまり、得意な絵が活かせそうな美術の道に進む事にしました。

才能があるかないかではなく、どうせやるなら好きな事で苦労したいとの思いが強くなったからです。突然の進路変更でもあり「美術=芸術家=食べていけない」との誤解から反対する身内もいましたし、高校の進路指導の先生からも無謀だと反対されたのですが、一度決めると頑固な性格なのでありとあらゆる手段を探して実行しました。ありがたい事に奨学金にも恵まれ、県内の短大の美術科に合格、進学する事が出来ました。人生ダメ元でも、やってみるもんだ、というのが信条になりました。
2年次にはコンピューターグラフィックスに出会い、グラフィックデザイナーという職業がある事を知り、その面白さと将来性から、反面現状の知識と技術の未熟さも痛感し、もっと専門知識を学ばなければと思いました。短大卒業後、あらためて東京の専門学校に入る事を決め上京しました。

当然、親からの仕送りは期待できなかったので、新聞奨学生の制度を利用し、新聞販売店に住み込みで働きながらの学生生活でした。午前3時から朝刊配達、授業を終えた後にまた夕刊配達、ある程度営業活動をした後、学校の課題をこなしてから、午後9時には就寝するといったストイックな毎日でしたが、最先端の技術や教師陣に囲まれた学生生活は充実していて楽しかったです。休日には様々なアーティストの個展を観に出かけたり、地方ではなかなか体験できない事も沢山あり大いに刺激を受けました。

スタッフ

時代は就職氷河期の真っ只中だった事もあり、地元に帰っても思うような仕事のあてもなく、条件の良い仕事が沢山ある東京でそのまま就職するか、卒業ぎりぎりまで悩みましたが、父の介護の事も心配だったので、Uターン就職することにしました。私が学生の間は母が父の介護の主な担い手でいてくれましたが、母も歳はとりますし、姉たちも幼い子どもをかかえていたので、実家の事を頼むには負担も大きかったこともあり、ゆくゆくは私が同居し、面倒みるしかないと思っていたからです。

なかなか大変な職探しでしたが幸運にも自宅から通える広告代理店に就職する事ができました。新聞の折り込み広告の制作業務だったので締め切りに追われ続け、徹夜で勤務する事もめずらしくないほどでしたが(今ならブラック企業と思われるかもしれませんが…)苦学生の経験で培った忍耐力で乗りきりました。安定した生活を送れる程度には報酬もあったので、高校時代に悩んで選択した道がやっと報われる思いもしました。

グラフィックデザイナーとして3年経験を積んだ後、さらに自宅に近い靴メーカーに転職。タグやパッケージといったグラフィックデザインだけでなく、靴のデザインも担当させていただく事もあり、商品企画全般に携わりました。商品は海外の工場を生産拠点としていた事もあり、韓国や中国をはじめとする世界の方と一緒にビジネスをする楽しさも覚えました。ちょうどその頃ネット通販事業が話題になっていた頃で、デジタル機器に抵抗がなさそうという理由だったようですが、ECサイトの立ち上げにもプロジェクトリーダーとして社長に抜擢してもらいました。

WEBの管理・運営を任され、仕事に走り続け、気が付けば30代に突入。縁あって結婚しましたが、主人の父も介護が必要な年齢だったため同居の道を選びました。主人の理解もあり、実家から近い位置に「近居」し両家を行き来する生活でした。
子どもも授かりましたが、好きな仕事も諦めたくなく、しばらくは子育てと介護と仕事の両立に取り組みましたが、やはり出張の多い仕事には限界を感じるようになりました。
実家の父は17年の介護生活を経て看取りましたが、今度は母が網膜色素変性症を患い視力障害に、やがて認知症にも。嫁ぎ先の義父もガンが原因で、さらに見守りが必要になるなど、家庭状況も厳しくなったため、悩みに悩んで一旦退職する事にしました。

スタッフ

仕事が大好きで、すぐにでも仕事復帰をしたかったのですが、2人目の子どもも授かり、想像以上にハードな生活により、人生で考えもしなかった「専業主婦」の生活を5年以上過ごす事になりました。もちろん残念な事ばかりではなく、地域の役割や近隣の方との年齢を超えた交流といった、きっと仕事をしているだけでは知りえなかった人達とも知り合い、貴重な経験も多くさせてもらえ、人間的に成長できたようにも思います。
ただ、多くの年月と情熱をかけて築いた自分の仕事としてのキャリアに未練もあり、何か活かせる場は他に何かないかと考えていた40代に入ったころ、なかむら歯科クリニックの求人に出会いました。

さすがにデザイナーとしてはブランクが空いてしまった為、前職のようなフルタイムでの仕事には躊躇していたのですが、母がデイサービスに通い、子どもも保育所に入った事もあり、隙間時間に何かできないかと考えていた時期に、パートでのDTPオペレーターの求人に出会えたのは奇跡だと思いました。
パートだけでなく時短勤務や、常勤にもフレキシブルに選択できる点にひかれた事もありますが、何より「歯科医院にDTP業務があるの?」という単純な珍しさへの興味も大きかったです。入職してみると、クリエイティブ業界とは全く違うと思っていた歯科医療の業界も「お客様のため=患者様のため」に置き換えるだけで、前職に通じるところも多く、思いのほかアイデアがたくさん浮かびます。
院長が多様性を受け入れ、デジタルツールを多く導入されていることも働きやすさの要素としてマッチしたのかもしれません。
なかむら歯科クリニックの事務は医療事務というくくりではなく、裏方として医療スタッフを支える仕事全般を担っていることもあり、DTP業務以外でも「あったらいいな」と思う事を創造していくという点では、デザイナーの経験が活かせているのかなとも思います。

スタッフ

何はともあれ、職種は違っても、老若男女問わず長期勤務する上で、ぶつかる壁には共通するものがありますし、その意味では自分の働き方としての経験が役に立っていると感じます。
自分としてはライフステージの変化によって仕事を辞めるという苦渋の選択はしましたが、その経験があるからこそ、逆に仕事を続けるためにどういう環境が整っていれば可能なのか、という発想にも転換できるので、今だからやれること、やりたい事があふれてきます。転職・離職率が高いといわれる歯科業界ですが、やりがいをもったスタッフが長期勤務できるように、職場環境を整えていく事も自分のミッションではないかと勝手に思っていますので、スタッフ全員を陰ながらバックアップしていきたいと思います!

スタッフ
院内ストリートビュー!

院内を360度のパノラマビューでご覧いただけます。

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